はまなす放談

HPのリニューアルを機にコラムを設けました。
定期的というわけではありませんが、時代に遅れないように“放談”します。

vol.22 『銀行は裸の王様である』を読んで

しばらくお休みしていた“放談”を再開します。
これからは、自らの放談だけでなく、人の意見を聞くということで、とりあえず書評です。
と、言っても、かなりの部分は私の考えを述べています。人の傘で雨の日の散歩といったところです。

『銀行は裸の王様である』(アナト・アドマティ、マルティン・ヘルビッヒ、土方奈美訳、東洋経済、2014年)を読んだ。原題は、The Banker’s New Clothes だから、裸の王様はそのままの訳だろう。
著者達(アメリカの学者、かなり実務・政治に近い)の意図は、銀行は外部から批判されるたびになんらかの理屈を立てて自らを防衛してきた。リーマンショックの際も同様だが、本人だけが着ているつもり、実は“裸”なのだと主張する。
銀行が批判にされられたのは2008年の例の事件。世界中で数百兆円の金融資産が消失し、世界で1600百万人の失業者を生み出した。結末は、“税金を使って大手機関を救済する”だった(AIGという最大手の保険会社)。実物経済にも波及し、世界中でクルマが売れなくなる。
アメリカ商務省の統計によれば、新車の販売台数は2007年頃から下降していた。おそらく国際競争力の問題だろう。それでも1800万~1700万台であったが、ショックのあと2009年には1000万台ぎりぎりにまで落ち込む。
苦境に陥った大手企業を救ったのは、エコカー減税という迂回した補助金だった。中国は、この国としては史上最大規模の財産資金(4兆元)をつぎ込み世界への需要を支えた。その後、中国が公海上で好き勝手なことをやっても、一帯一路などという時代錯誤を展開しても、主要各国が文句を言えないのはこの時の借りがあるからかもしれません。

2008年の事件の発端は金融機関だ。だから、ここに批判が集中するのは当然だ。しかし、金融機関といっても様々で、リーマン・ブラザーズはかなり特殊な組織だった。まず、自己資本が少ない。運用している総資産に対して数パーセントしかなかった。大衆から預金を預かっている金融機関とはかなり違う。日本の信用金庫などからみれば、“一緒にされては困る”ような組織だった。
だから、この本の主張は、一見、すべての金融機関に向けられているが、アテはまらない分野もある。
主張は単純で、金融機関の自己資本比率を20~30%にしろ、というのである。2019年から実施予定のバーゼルⅢでも7%だから、これはかなり高い要求であり、理論的には相当な問題がある。それを議論しようというのが今回の放談の目的である。

〈銀行の自己資本〉

 銀行も企業として誰かが創立する。その時、誰かは資本金を出資する。それは事業をスタートさせるためのお金であり、多少、余裕をもって用意するのが普通だ。事業が軌道に乗るには時間がかかり、それまでにお金が不足しても誰も貸してくれないからだ。資本金はバランスシートの右側の下に計上され、その上に記載される借金系の資金を他人資本と呼ぶから、こちらは自己資本となる。他人のお金(返済の必要がある)と自分のお金を混合して事業を展開する。
 一見、事業会社と同じにみえるが、混合(・・)というところが違う。現実的には金融機関(ここでは預金を集める機能を持つものを念頭にして、それを銀行と呼んでおこう)も混合(・・)するのだが、理論的には、きちんと用途区分がある。

 なにを主張しているのかわからない、という声が聴こえそうだが、しばらく歴史の話をしよう。
 銀行は金貸し(実体は高利貸し)から発展した。金貸しという商売は長い歴史を持っている。それは、どこの国でも貨幣の出現とともにあったはずである。貨幣に不足する人と余る人がいて、後者から前者へお金の移動が必要となる。こういう事情はいたるところにある。飢饉で食べるものがなくなる。遊びすぎてお金がなくなる。国家レベルでいえば、戦争にお金がかかり税金では足りなくなる等々。
 こういう時、まず出現するのは高利貸しであった。借りる側の事態は緊急を要するから、利子・利息についてしのごの言ってはいられない。貸す側は、その足下をみて、高利をふっかける。
 必然の状況が生んだ“金貸し”だが、困ったことが起こる。それは、高利の社会的な害悪であった。資本主義は社会の上に展開するから社会が傷ついてしまっては困るのだ。
もうひとつの事情。それは、資本主義が発展すると利子は利潤の内枠で決まる、つまり o<r<p(rは利子、pは利潤)。これでないと、お金を事業のために借りるという人がいなくなる。だから、資本主義のもとでは高利貸しは一転して“やっかいな”存在になる。よくいわれるのが社会の寄生虫だ。そこで寄生虫を退治すべく出現するのが銀行である。このあたりの物語は『金融の原理』に詳しく書いた。

 同じ金貸しでも高利貸しと銀行では決定的な違いがある。それは前者は自分のお金を貸し、後者は他人のお金を集めて、それを貸すのである。冒頭のバランスシートでいえば、借り方計上の負債を銀行は貸すのである。
 自分のお金を貸すと高利貸しにならざるをえない。その理由・背景は資本主義の歴史の中にある。いわゆる平均利潤率の成立だ。一定の能力があれば、資本(元のお金)は、ある範囲の利潤をもたらす。それを率にしたものをp’とする。もし、自分のお金を貸していると、このp’を求めることになる。それはすなわち利潤であるから、p’=r’となり、o<r<pに反する。現実には、お金を貸すという商売も事前の投資が必要だ。その経緯を考えるとrの値は高くなる。だから自分のお金を貸して、かつ平均利潤率を求めようとすれば、必然的に高利貸しになる。

 では、貸すお金は他人のもの、具体的には預金で集めて貸す、というスタイルにしたらどうなるか。
 整理すると
{総預金-準備金(預金×R)}×貸出金利が収入である。総預金をDとし貸出金利をraとすれば、収入I=ra(D-RD)である。Rは1未満でゼロではない。
 支出は、預金利子をrbとするとD rb、1年分の事務費をE(固定資本は無視する)とすればD rb+Eである。
 利潤はP=ra(D-RD)-(D rb+E) (式1) となる。
 この場合、利潤に貢献するのは総預金(D)と貸出金利(ra)であり、マイナスに作用するのは預金準備率(R)、預金金利(rb)、そして諸費用である。ここからいくつかの事が確認できる。①金融機関は量のビジネスである。1円を集めるのも一億円を集めるのも費用はさほどに変わらない。②ra>rbが原則であるが、ra-rbの価、つまり利鞘が大きいことは決定的である。③費用は節約できるにこしたことはなく、常に効率が求められる。
現時点に立って言えば、①は不変であるから、規模の小さな金融機関はそれだけで困難を抱える。②は、ゼロ金利では深刻だ。ゼロなのはrbだが、これが低いということはra-rbも大きくない。預金金利の水準を無視して一方的に貸出金利を上げることは独占が成立していない限り不可能である。③経費に関しても規模のメリットは大きい。その典型はシステムである。
 利潤率は投下資本でこのPを割ったものだが、投下資本とは何か?ここでバランスシートに戻ると、その右側の下にそれはある。実際にはどのビジネスも初期の固定資本を必要とする。銀行でいえば、土地、店舗、機器類がそれに相当するが、上に示した式ではそれは除外している。どのように減価償却するかは様々で一般的には論じられない。理論的に主張すべきは、これらの費用は預金ではなく自己資本で賄われるということである。
いま式1に適当に数字を入れてみる。raは貸出利率3%、rbは預金金利で1%、準備率は10%、そしてEには経常のコストと固定資本の一年分を入れて10、最後に総預金額Dを1000とすれば
P=0.03(1000-0.1×1000)-(0.01×1000+10)
となり、利潤率は7/100=7%となる。これが平均利潤以上、つまり世間並の利潤とならなければ、この銀行業は成立しない。
 極端な例として預金ゼロで自己資本を貸出に回す場合を考えると、7%の利潤率を達成するにはかなり高率の少なくとも7%以上の貸出利率が必要であり、それだけ高利貸しに近づくのである。
 預金という他人資本を貸出の原費とすることが、近代的銀行業の由縁である。

 賢明な読者は気づくのである。以上の例でいくと投下資本(自己資本)を少なくしていくと利潤率は上昇する。それが正の値であれば、自己資本ゼロにすれば利潤率は無限大である。なぜ、すべての事業家はそうしないのか。これは、資本主義における所有とはなにか、という別の問題があるからである。“私の会社”を主張し、利潤の大方が“自分のもの”であることを主張するためには、会社を所有していなければならない。その主張の根拠は、自分が出資していること、それも支配権が成立する分量を出資していることである。だから、自己資本の縮小には限界があり、また事業遂行のための費用がゼロという事業形態はありえない。ここで示した原則は、銀行業にも同じように適用される。

 以上の考察をもとに、冒頭に示した書物について検討しよう。問題点は2つある

 ①自己資本の規定があいまいである
 ②準備金と自己資本が混同されている

 ①について。著者は銀行が自己資本と預金を混合して貸出しにあてるとみている。これは、現実にはありうるが、理論としては正しくない。自分のお金を貸す分だけ高利貸しに接近するからである。それは銀行が自分の歴史を否定することにつながる。
 このような著者の見解は、世に広まっているバーゼル規制の影響だろう。BIS(国際決済銀行)の規制の主要な標的は銀行の自己資本である。それを厚くすることが銀行の安全性を保証する、これはそのとおりだ。たしかに、すべて自己資本の銀行が倒産しても迷惑は株主にとどまる。しかし、この想定はナンセンスだろう。自己資本以外に銀行の安全を保証する要素はなんであろうか、これを考えることは意味がある。

 ②について。預金準備金は預金の一部から形成されるから、それは自己資本ではない。そしてその率は、国により時代により様々である。準備金について考えるべきことは預金者のいかなる資金がそれを形成するかである。このことは、『金融の原理』で詳しく考察している。
 ゴーイングコンサーンとしての銀行業をみれば、お金をしまっておく金庫はひとつだろう。ここに、資本金も預金も、そして収益・利潤の一部も入ってくる。この現実をふまえて著者達の主張は形成されている。そして最終の主張が、自己資本比率30%なのである。理論を知らずして、ただ現実に流されれば、結論は現実離れするし、歴史を無視したアナクロニズムになる。

 銀行の自己資本については、それがなんのためにあり、量的・率的に適当なのはどこかという問題がある。
 歴史的には、多くの場合、富裕な人々が資本を出し合って銀行を設立した。預金を集めるのはしばらく後であり、しかも20世紀になるまで、大衆の預金は集めなかった。そうするには、支店網と人員の配置が必要だからコストが合わなかった。大衆の預金となると社会的な責任もあるし、預金保証制度が公的に整備されないうちは進出できない。また、重化学工業などの重装備の産業、鉄道会社などが出現する前は、さほどに他人の資金は必要なかった。産業に用立てるお金は旧支配者階級(地主・貴族)と産業資本家の内に存在し、それで充分だった。
 こういう状況では、預金≒貸付原資、その他経費類・設備≒自己資本という、ここで主張した理論上の区分は、事実上、注目されなかった。また、富裕な人々の共同出資による銀行は平均利潤率に拘束されなかった。それは、機能上、彼らの金庫の延長線上にあり、半企業であった。
 マルクスは『資本論』Ⅲ-29章で「銀行資本の諸成分」を論じている。この章は表題もエンゲルスによるものだが、そこで強調されているのはバランスシートの左側に計上されている資産であり、これらの多くが事実上存在しない架空のものだということだ。つまり、今日の金融連関比率に関係する事柄である。
 自己資本はバランスシートの右側の下の項目だが、上の項目(預金)と使い道が違うという意識はない。右側の比率がどうであろうと、左側の資産の架空性は変わらないと主張している。ついでに言えばここでの注目点は、資産の項目に流動性の高いものがあるが、それは中央銀行への預金であるという指摘だ。この預け金は、“確かなもの”のようであるが、イングランド銀行の金庫にそれが全部あるのではない、と強調している。信用制度全体が架空性を持っており、その現実性はただ一点、つまり中央銀行の準備金である。そして、金本位制下ではなにかあるたびにこれが増減し、その上部に築かれた信用の城は大きく揺れた。29章は、私達の論点での議論ではないが、金融連関比率の傾向的上昇と信用制度の不安定性を暗示させる。

 もう一冊。原題は“This Time is Different”、直訳すれば「今回は違う」だが、これではなんのことか?なので、訳者(村井章子)は工夫して『国家は破綻する』(日経BP、2011年)とやや飛躍している。
 著者はカーメン・ラインハート、ケネス・ロゴフ。前者はメリーランド大学の女流経済学者。後者はハーバード大学教授、こちらはチェスの全米チャンピオンでもあったという。二人とも元IMFの職員で、そこに集積された膨大なデータを使って2008年前後の多国データを解析した。
この本の凄いのは理論志向でないこと。重箱のスミのようなところに“理論”をみつけて、それを得意と勝手に思い込んでいる数学を使って“証明”して自己満足、という俗流とは対極にある。特に第5部以降の各国比率は圧巻である。IMFというデータを集積には世界一恵まれた場所と、データ扱いの天才達が運よく出会って生まれた作品である。
 タイトルはともかく(おそらく、売れることを願って出版社が…)村井章子さんの訳も素晴らしい。プロは違う!
 世界史上、金融危機・銀行危機が生じなかった年は2008年以降でみるとたった1回しかない。つまり2008年は、その以後の危機の恒常化のきっかけとなったのである。
 今後の見通しを立てる際に重要なのは次の三つの要素である。

①資産市場の下落。住宅価格と株価の下落。
②生産と雇用の落ち込み。
③政府債務の実質価値の急増。

 2018年の私達の時点でみると、①も②もまだだが、③は充分すぎる程で、しかも世界的だ。①については、日本でみれば、東京の住宅価格は頭打ち、地方は下落のまま。②アメリカの失業率は戦後最低だが、トランプ政権下の絶好調にもやや陰りが見えている。アメリカは既に利上げを繰り返し、出口に向かっているが、それは新しい危機の入口かもしれない。
 危機の伝播には二通りあるという指摘も興味深い。ゆっくり、じわじわとしたスピルオーバー型と、急速に国境を越える“激烈”型がある。いまは前者が進行している。
 危機の深刻度を計測する方向も興味深い。次の5つの指標、すなわち、公的対外債務・公的国内債務、銀行危機、通過暴落、インフレーションに0~5点をつけ総合点を出す方向で各国の状況を見る。これは5つの要素の頭文字をとってBCDI指数と呼ばれている。この5つに株価暴落を加えたものをキンドルバーガー指数と呼んでいる。(図1)

BCDI指数のグラフを見てわかること
①2008年のそれが、1930年代の危機に匹敵する規模であった。
②株価を入れたキンドルバーガー指数は危機を増幅している。
③戦後もいくつもの危機があったが指数でみると50を超える程度で、100をはるかに超える危機は2008年だけである。

 どちらに指数も有効に見える。あれから10年、株価の史上最高値(アメリカ)は極めて危険な領域にあるようだ。
 リチャード・クーさんもリーマンショックには数多く言及している。彼は大きな危機が発生する条件として次の3つをあげている。
(1)利上げ
(2)怪しい金融商品の出現
(3)多くの金融機関が同時に同じ問題を抱える
 クーさんによれば、(1)はFRBの手で現在進行している。(2)当時のサブプライム証券のようなものはなく、金融機関の投資先の分散は進歩している。よって、“世界的な金融危機が一夜にして発生するリスクは…低い”と私達を安心させてくれている。(「マンデーミーティングメモ」2018年9月18日号)

 桂木明夫『リーマン・ブラザーズと世界経済を殺したのは誰か』講談社 2010年。
 凄いタイトルだが、ここに本書を出版した当時の著者の怒りが示されている。結論だけいえば、主犯は当時の財務長官で、その前はゴールドマン・サックスの社長だったヘンリー・ポールソンだという。この主張の是非は個々では措くとして、本書には当事者(著者はリーマンの日本法人社長)ならではの興味深い指摘がいくつもある。
①リーマン・ブラザーズを当局が救済しないことを決めた直後に、政策方針はぐらつき始めた。衝撃の大きさ、世界への影響に驚いたので、保険会社AIGを救済、次いで、GM(ゼネラルモーターズ)、クライスラーを国有化した。
 日本でも似たような事態があった。北海道拓殖銀行は見捨てたが、その後の金融界への伝播、実物経済の低落をみて、救済路線に転換している。日本債権信用銀行は一時国有化だし、足利銀行は財務省の仲介で横浜銀行に救済された。日本でも最大の自動車メーカーに政策的な配慮があった。いわゆる住専問題で蓋をされていた救済が拓銀を生贄にすることではずされたという理解はいまでは一般的になっている。
 桂木氏の主張
①最大の特徴は伝播の速さであった。
②伝播は実物経済におよびGM(ゼネラルモーターズ)を直撃。
③株価が最も下がった先進国は日本だった。
④世界の危機対応のための強調は素早く、1930年代のような事態を避けられた。

 本書は著者の日記・日誌の再構成だから臨場感があり説得力がある。多分に感情がこもってしまうのはやむをえない。アカデミズムの書物ではないから、これはこれとして評価すべきだろう。現在、当時を語り論ずる書物は多いが、当時のリーマンの社長、ファルド氏の肩を持つのはこの人だけだ。
 内容はエキサイティングだが結論が平凡だったのは残念だ。規制強化を主張し、現在、別の問題で批判の的になっている金融庁への期待が表明されている。最後は“お上”頼みか!ちょっと残念。

※これを執筆したのは2018年10月、ボーッとしているうちに月日が流れてしまいました。チコちゃんに叱られますね。
※現在進行している銀行(特に地方金融機関)の危機的状況をどうみるかについて長い論文を書いていました。“放談”休日の主な原因です。

濱田 康行

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