はまなす放談

HPのリニューアルを機にコラムを設けました。
定期的というわけではありませんが、時代に遅れないように“放談”します。

vol.20 血の臭いから死の臭いへ

 血の臭いから死の臭いへ:あれから10年

 マルクスは資本主義は頭のてっぺんから足の先まで血の汚物にまみれて出現したと表現した。資本の原始的蓄積の章にある記述だが、いわば血は搾取であり汚物は前の時代の残滓であろう。
 長い歴史を省略して言えば、その後、資本主義は自らを清めることに成功した。20世紀の後半になって労賃は上がり、労働者の生活は良くなった。もちろん比較の問題だが、良くなったことは統計上も確認できる。文化的な面で昔の生活を懐かしむことはあるが、経済的生活で後戻りを望む人はいない。ブータンは人々に微笑みが残る国だというが、電気のない生活を好む日本人は少ない。

 消費と生産の関係が経済学によって証明されることで、賃上げは労働組合の運動によってしか実現しないということでもなくなった。搾取を抑制して賃金を上げ景気をよくしよう、という政策が資本・経営側から主張されている。階級闘争は終焉したかにみえる。
 もうひとつ原始の資本主義の原則があった。それは利子(r)は利潤(p)の内輪であり、さらに(p-r)>rが成立していたことだ。お金を丸々借りて事業をやりpを得る。そこからr(利子)を払うが、払った残り(p-r)はrより多い。これは、じっとしている貨幣資本家より機能する資本家がより報われるということだ。これが保証されることで、資本主義はアクティブになる。ケインズが金利生活者の死を望んでインフレーションを容認したのもよくわかる。インフレ率がθ(p-r)とrの間にあればよい(p-r>θ>r)。しかし、これを長く続けると、お金を持っている人は海外に出ていってしまう。これは、グローバリズム下の問題である。ケインズの時代は金利生活者は死ぬよりなかったのだが現代では財産を持って国際線に乗ることができる。もちろん各国はこの事態を規制しようとするが、それは後に述べよう。

 最近、この前提が怪しくなってきた。資本家には二種類ある。毎日、オフィスに行って働く資本家(機能資本家)と、この機能資本家に向けてお金(資本・元手)を提供し、その形態に応じて融資なら利子を、投資なら配当を得る資本家(貨幣資本)に分かれる。あくまでも理論上である。現実にはひとりの資本家がこの役割を局面によって使い分けたり同時に果たしたりする。また、機能は動(・)、貨幣資本家は静(・)とみなしているが、実際には投資や融資にも相手を選び、中途のプロセスを管理するという仕事があるから、決して寝て待っている訳ではない。
 そこであらためて機能の側に入る収入をgとし、お金を所有する側の収入を(これをまとめてレントと呼ぶ)rとする。既に述べたように資本主義が活動的であるためにはg>rでなければならない。資本主義などと大袈裟なことを言わなくても動いているほうが寝ているより報われる社会しか進歩はしない。これは判り易い。

 有名になったピケティ氏の話に近づいてきたが、彼のgはGDPの成長率である。厳密には違うが、いくつかの前提を置けば機能資本家の利益と近似するから、このまま話を進めよう。
 もしこの不等式が逆転し、それが長期間続くとなったらどうなるか。動くよりじっとしておいたほうがよい。動くことはあまり儲からないことになる。動きの典型、それは投資だが、それは停滞する。お金は使わず、貯蓄され、そこから有価証券等にまわる。この循環は一国モデルで考えるとすぐ破綻するが、動くほうが儲かる別の国を想定できる世界経済では当分の間成立する。先進国と途上国というやや古臭い二分法で論を進めると、前者ではr>g、その結果はお金の海外流出である。なんとかお金を投資に回そうとすると、つまり金利を下げると、今日の日本のように資本の海外流出がさらに加速される。民間にひとたびお金が出てしまえばそうなるから、その手前で余剰なお金は中央銀行が吸い上げてしまうという政策がとられる。rには配当も含まれるから、これが高ければ株式の投資は残る。配当率は以前にもまして気になり、大いにそうである外国人株主と国内の年金基金などがこれを後押しする。
 融資だけみるとrは低い。これが専業の金融機関は二つの方向をとる。有価証券か海外かどちらか、あるいは双方。メガバンクは後者で、海外事業に直接出られない中小金融機関や、はまなす放談No.17のテーマであるゆうちょ銀行は前者である。しかし、海外であろうと国内であろうと有価証券投資で安定的収入を得ようとするのは難しい。変動を常態とするものから安定を引き出そうとしているのだから。
 r>gになれば、事態は動かなくなる、静かな世界になり、フロイト流に言えば死の世界である。フロイトは貨幣の蓄蔵に死の臭いを感じとった。資本主義は生の世界であった。その生は短期間の死(仮死)から生まれる。貨幣は蓄積され一定の大きさになるまで死蔵され、そこから投資に向かう。投資は最も儲かるところに集中されるようになるが、20世紀、特に戦後から、それは製造業ではなく金融業になった。金融業のひとつの特徴は仮想があることだ。無いものがあるものと想定される。あるいは10しか無いものが100あることになる。ビジネスモデルの内側に錬金術と増幅装置が内包されている。トヨタはあらかじめ計画された自動車の台数をある期間内に製造する。完成品はどれ一つとして仮想はなく、ちゃんと動き出す。リーマン・ブラザーズは資本金の数百倍のお金を仮想の有価証券に投資していた。事態が順調に進んでいけば掛算を内包する企業の利潤率のほうが高い。しかしその利潤はよくみるとrの集積であり、かなりの部分は仮想の元本から生み出されたのであった。

 仮想の世界は、時折、現実の世界に引き戻され、時にそれは激烈な形で展開する。2008年にそれは起きた。仮想であっても、いわゆる簿外であっても、これが吹き飛べば企業は赤字になり、始末が悪ければ倒産する。倒産は伝染するが、その速度は現実より仮想のほうがはるかに早い。フロイトならこの過程を、生→仮死→そして生にみせかけた死・倍化された死→破局と描くのではないだろうか。いわば、迂回であるが、そのぶんだけスピードが早くなる。そしてこれを重ねれば重ねる程、究極的に生じる崩壊は危険なものになる。
 資本主義は血の臭いを拭い去るのに成功したが、死の臭いからは逃れられないのであるかもしれない。

 

 リーマンショックから 10年が経過した。株価は連日の新高値だが安定した世界に生きているという実感はあまりない。

濱田 康行

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