はまなす放談

HPのリニューアルを機にコラムを設けました。
定期的というわけではありませんが、時代に遅れないように“放談”します。

vol.16 CSRと中国

 企業の社会的責任を、その英語表記の頭文字をとってCSR(Corporate Social Responsibility)という。最近では、その責任を自覚し目的の上位に揚げている企業そのものをCSRと呼ぶこともある。
 CSRは営利を目的とする一般的な企業とは違う社会的な存在であるとするのがCSRを強調する論者の共通の主張である。こうした主張の妥当性を検討したい。というのは、私達の当面の問題は“地方創生”で、先の論文でその主要な舞台は中間領域(論文では第Ⅱ領域)にあり、そこに存在する様々な組織が中心になって運動を展開するべきだと主張しているから、もし私達がCSR論を容認するなら主体のひとつとして考えるべきことになるからである。

 なぜCSR論のような主張がでてくるのか。それは経済学が企業を暗黙に定型で考えていて、様々なバリエーションを認めないからである。マルクス経済学では、企業は資本の具体的・世俗的形態にすぎず、それ自体を問題にすることはない。資本は最初のG(貨幣)であり、それは自己増殖を(G-G’)無限に繰り返す存在として極めて抽象的に定義されているにすぎない。もちろん『資本論』にも特別剰余価値の項・章にみられるように、個別資本の行動、つまり個々の資本家・企業者の行動に着目する箇所もあるが、それは自発的な個性豊かな資本家をイメージしているのではなく“そのように行動せざるを得ない”受動態として措かれている。これは唯物論を基底にすえたマルクスの体系からすれば当然のことである。
 では対抗する近代経済学はどうかというと、ここでも企業に関してはほとんど何も議論しないのである。それは合理的経済人の集団ぐらいに考えている。ある外的な条件があれば、決まった行動をする受動型として登場すると考えるのはマルクス経済学と変わらない。
 経済学がこのように企業を動きのないものとしてしか把握・認識しなかったからこそ、経営学は誕生し、今日の展開をみたのだろう。
 A社とB社は同じような製品を同じような規模で生産していても、経営者の違い、そして彼らの行動の違いによって大いに異なった結果を持ちうることを主張できたのである。経営者の資質、経営者の下につくる組織のあり方、社員個々人の行動の仕方等々で企業の結果(業績)はまるで違ってくるという極めて常識的なことを主張することで、経営学がひとつの学問たりえた。少なくともその体裁をとりえたのである。
 CSRに戻ろう。これも企業のひとつの形態で、それは経営者が選択しうる。ウチの会社は利潤一辺例でいかない、社会的な貢献を意識してやる、経営者ならそう決めることは難しくない。問題は、そういう企業が“利潤一辺例”の企業と闘えるかだ。ずいぶん前に、このシリーズで、白猫と黒猫の話をしたことがある。中国のような、まさに利潤原理にめざめた国の“利潤一辺例”の企業に、美しいことを掲げるCSRが勝てるか?マルクスはここを問題にした。資本家のヒトの良し悪しを議論するのは経済学ではない。ある物的な状況のなかで同じ思考と行動をする。そうしなければ彼の存在はないからだ。こう考えれば個性を問題にする必要はない。
 そこで少し危ない話になる。CSRの財源を利潤からの控除でやると競争戦で不利になる。利潤率は下がるからだ。そこで労賃からの控除でやるという突飛な話が出てくる。

 「この企業・資本に関わっている人たちは社会的価値や社会的使命の実現という利他的社会的『大義』のために活動をし、その目的のために協働・協同・共同労働を行うのであるから、労働の対価にこだわらない。」
(出家健治 「企業の社会的責任(CSR)と社会的企業・社会的資本の社会的役割の同床異夢」『中小企業季報』2017年 №4 P.6)

 ブラック企業の経営者が聞いたら、“これだ”と叫びたくなるだろう。ウチは社会のためにやっている、諸君は賃金を切り下げて働けと。これは不等価交換のススメである。CSRは通常の搾取を超えて、不等価交換による利得も得るのであるから、社会貢献できるのである。社会という言葉があまり吟味されずに、いいかげんな正義として使われている。論文には「犠牲的精神」なる言葉まである。ブラック企業はホワイトな白馬の騎士なのだ。

 「その結果、この『犠牲的精神』によって労働の対価として払うべき賃金部分を押さえることが可能となり、この部分の圧縮によって利益〈いわゆる粗利益〉が生み出される。」
(同上 P.6)

 経営者本人だけが、うるわしいと思っていて、実はそうではないことはたくさんある。社員に朝出をさせて近所を清掃するとか、休日に揃いの浴衣で盆踊りに出るとかを自慢している経営者は多い。
 犠牲的とかボランティアとかには落とし穴が多い。個人の意志としてのそれは美しい。震災の時、被災地に出かけて働いた人達は多い。しかしこの論調には、悪用されてしまう罪深い落とし穴がある。
 CSRは市場の外にあるというのも妄想のたぐいだ。人々が数人集まって組織をつくる。同好会のようなものが市場(競争のあるところ)の外にあるのは当然だ。しかしCSRは企業なのである。Cは会社を示しているのだから。
 個人も会社も、自らの手におえないこと、それこそ社会のための仕事を公共の手にゆだねるからこそ税金を払っている。企業の行動が利潤追求でなく社会のためなら税金は成立しない。企業は私欲を追求しその一部を税金として払い、国家・公共はそれを使って社会の仕事をするのだから、資本主義社会で最も罪深いのは儲からないで税金を納めない企業だ。
 企業を利潤原理から引き離すなど夢物語であり、そうする必要はまったくない。企業は、利潤をめざすからこそ爆発的な力を発揮するし、また利潤によってこそ持続性を持つのである。この持続性こそ社会的である。
 地方創生に企業(中小企業)の参加が不可欠だとするのは、この力と持続性が不可欠の要素だからである。
 先の論文でも、Ⅲ(利潤世界)が全体のエンジン部である事を強調した。それは、社会主義の失敗をみているからだ。ロシア革命はⅢの世界を破壊し、これに変わる創造性を計画経済に求めた。当時のソビエトの学者たちはかなり真面目にこの作業にとり組んだ。(『ソ連という実験』松戸清裕著 2017年)。しかし、市場に代わるような計算はなかなかできなかった。結局、1924年にはレーニンも市場経済の一部導入を決める(NEP)。なにより困ったのはⅢの世界を否定したことで、社会の成長力が削がれてしまったことだ。
 現代の中国はこの失敗をよく学んでいる。Ⅲを生かす、それだけみればもっと資本主義的なもので、ここで無限の欲望が爆発している。それを強大なⅠ(公共・国家)によって統制する。国家主席の地位を永遠に保証するなどという毛沢東時代への回帰が生じたのは、中国のⅢ世界が強大になってしまい、それを統制するにはそれなりのⅠが必要と考えたからだ。しかしここには忘れられた『資本論』の論理がある。ⅢはⅠによって究極的に統制されることはない。Ⅰを乗り越えるか、Ⅲが衰えるかのどちらかなのである。後者の可能性は極めて強いが、その場合にはCSRの理論が使われ、ブラック企業が多数出現するだろう。そこでは絶望的な労働者の組織はⅠによって統制されてしまっている。私達は、大連の自転車工場(大連は世界一の自転車の産地)で、劣悪な環境で働き短期間で肺を悪くし、取り変えられる奴隷的な状況にある労働者を多く見た。経営者は政党の幹部でもあり、労働者はいくらでも内陸から供給され、使い捨てられるのだと平然と話していた。中国の強大な軍事力は海外に向けられることで国内的にも存在が容認される、それは場合によっては労働者への弾圧にもなる。天安門事件で戦車が学生を轢き殺したことを忘れないように!香港の学生運動を制圧したのも軍隊である。
 しかし内陸からの安い労働力の枯渇によって、この体制の条件はなくなる。それをアジアの低賃金で補う。南シナ海に展開する中国海軍の旗にはそう書いてあるし、そうして産出した商品の販路は一帯一路政策で確保しなければならない。将来は、商品の市場も原料の輸入もアメリカには頼りたくないだろう。

 CSR、つまり資本主義が心を入れかえる、その精神が変われば存在そのものも変るという“理論”は予想外の利用のされ方をするのである。

2018.03.13 濱田 康行

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