はまなす放談

HPのリニューアルを機にコラムを設けました。
定期的というわけではありませんが、時代に遅れないように“放談”します。

vol.10 マイナス金利の原罪

 資本と貨幣はどう違うか。なじみのない問にみえるけれど、経済学ではずいぶん議論されている。
 通常の解答はこうだ。貨幣は存在する物資である。もっとも電子マネーの時代になると物資としての存在も怪しくなるが、“これですよ”とある物を示して存在を確認できる、そういうものとして貨幣はある。電子マネーでも、銀行で引き出せば現物のお金になる。とにかく、貨幣は在る。ある瞬間で時間を切り取ってみるも、それはあるから写真にも映る。  ところが資本は写真に写らない。100万円投資して倍になった。その200万円の札束を写真にとれば、そこに写ったのは貨幣だ。この200万円が資本だと私達が認識するのは、100万円として投資されて、なんらかのプロセスを経てそれが倍になった“いきさつ”を知っているからだ。写真に写った200万円はどこまでも貨幣という物資であり、私達はこの像に認識を重ねているにすぎない。

 つまり、資本は運動の中にしか現象しないのである。

 資本主義経済とは資本が主体の経済。ところがその資本は常に運動していなければならない。資本家とは“資本の人格化”だが、それは高利貸のようにじっと座って客を待っているのではない。お金はあちこちをうろつきまわるのから、代理人としての資本家は動く人である。貨幣を動かし資本にする主体が資本家だ。だから資本家は休むことなどできない。運動を止めた貨幣が資本でなくなるように、静止したら彼は資本家でなく、単なる貨幣の保有者である。

 私達の時代が、例えば江戸時代と比べて、ものすごく忙しいのは、このためだろう。絶えず運動しそのスピードを競わなければならないから高速の乗り物も電子メールも必要なのだ。忙しい、動きまわらざるを得ない経済があるから、高速のツールを使う。私達は、余裕を持つために、それらを使用しているのではない。昔、2日間かけていっていた東京に1時間半でいけば差し引きたくさんの時間が余り、ゆったりとするはずだ。しかし、現実はそうではなく、逆である。

 貨幣が運動するといっても物質である貨幣はひとりではどこにもいけないから、人がこれを動かすのだが、実は主客は転倒している。新幹線に私達は乗せられているのだ。私達が主体でないから、族の情緒などは端からないのである。航空機では外の景色の見えない通路側から席が埋まる。新幹線ではいまでも窓側席に人気があるが、それは通路を頻繁に人が往来しうっとうしいから。そして東海道新幹線に限っていえば、富士山が見えるからだろう。

 資本が運動体であることを、見抜いていたのはマルクスである。彼は『資本論』の第一巻で剰余価値の生産の秘密を明らかにした後、資本の流通過程という、一見、なんのためにと思わせる分析をし、第三巻で総過程の分析(第一巻の生産過程と第二巻の流通過程の統合)に至る。こうして常に運動するものとしての資本が全体的にとらえられる。  資本の運動はそのスピードが早ければ早い程、利潤という概念で把握される果実が多くなる。スピードこそ命というわけだが、それを促進するものは、生産過程では機械、そして流通過程では通信手段である。そして、もうひとつ決定的なもの、それが信用制度である。これは、生産・流通の両課程にかぶさるように全体的に作用する。信用制度は資本主義の加速装置なのだ。そして、加速を生み出す核心が金利である。

 あなたが1億円でビジネスを始めたとしよう。借りたお金には利子がつくという最近の日本で否定されてしまった“原則”があるとしよう。利子は期間で生じる。借り手の側に立てば、これを事業に使って増やして、そこから利子が払える。つまり、どんなビジネスをやるかによって様々だけれど、借金には期間が前提されている。貸し手にすれば、お金を手渡すのはリスクだから、その期間に応じて利子を請求する。その高は期間に応じる。もうひとつ、期間が長くなると、リスク(つまり戻ってこないリスク)は高まるから、短い期間は安く、長くなると高い(一日当りで計算して)となり、これがイールドカーブの型をつくり出す。

 再び借り手で考えてみる。なるべく金利として払う金額は少ないほうがよい。1億円借りて首尾よく1億1000万円にしても1000万円の利子をとられたら意味がない。資本主義では利子は利潤の内輪という常識も確認される。

 金利が少なければそれだけ最終利潤は多い。そのためには早く返済することだ。しかし、1000万円増やすにはそれなりの期間が必要。この期間をどう縮めるか。かくして忙しい毎日が始まるのである。皆が時間に追われて忙しく働くと、その皆で構成されている社会も早く動く。これが資本の回転数に結果する。

 さて、金利をゼロ、そして今日のようにマイナス(マイナスは銀行と中央銀行の貸借、国債の利回りでしか実際には生じない)になってしまうとどうなるか。

 借りたお金を返済しなければ、という切迫感はもうない。もし、ホントにマイナス金利なら、借りたお金を握ってじっとしていればよい。あくせくビジネスに返り回る必要はもはやない。

 預金というのは経済学では遊休貨幣とか休息貨幣といい、止まっている状態のお金だ。だからマルクスはこれを資本主義の死重といったのだが、銀行に預金するという行為はその死重からの解放だ。つまり、金融機関という装置によって止まったお金が動き出す。それはそれを必要とする人のところに移動する。そして。その人の手で資本になる。運動をはじめるのだ。

 マイナス金利ではもはや加速はない。運動は止まり、ただの貨幣になる。資本はどこにも存在しない。私達は止まった世界に入り込む。
 心配なのは、一度、止まってしまえば、金利がプラスになっても資本主義は動き出さないのでは、ということだ。一度、機械を止めたらどうなるのだろう。
 資本主義は自殺する。社会主義によって乗り越えられることのなかった資本主義はマイナス金利で死んでいく。それはマルクスの想定しなかった別の型での自滅である。

2016.06.16 濱田 康行

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